神々は本当に存在していたー。
古代、人々は意識を持たず、神々の声に導かれていた。
意識を獲得する以前の人々は、何か行動や決断をする時に明確な理由を持っていなかった。
そして行動は、まず神々の声を受け取り、その指示に従う形で開始されていた、という。
まるで意志を持たない操り人形のように。
二分心とは
『遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた』これを二分心仮説という。
右脳で行なわれる非言語活動はすべて『頭の中で聞こえる声』というかたちをとって左脳の言語野に伝達されていた。
つまり古代人は意思決定権を持たず、右脳が生み出した別の存在の声に従って社会を営み、ある程度の規模の社会秩序保っていたと考えられる。
やがて意識の顕現とともに二分心は崩壊し神々は人間のもとから去っていくことになる。
禁断の果実(リンゴ)とは文字だった
旧約聖書では、アダムとイヴが禁断の果実を食べた(意識を獲得)ことで、神に追放された。この失楽園の神話と二分心の仮説はあまりにも符合します。
もし二分心仮説が正しかったとしたら、この神話を書いた者は二分心事件を知っていたのでしょうか?
神々の声の正体とは何か、古代人が二分心だった根拠を検証し考察していきたいと思います。
人類の意識獲得
人類は歴史上どのタイミングで意識を獲得したのか。
『神々の沈黙』の著者、ジュリアンジェインズによるとそのタイミングは今から3000年前だという。
すでに人類が数々の文明を築いてきた頃にあたる。
逆説的には意識を持たない人々によってメソポタミアやエジプトのといった個性的な文明や文化が形成された。そんなことがあり得るのだろうか。
行動と意識
本著では、意識は必ずしも行動に必要ではない事を、車の運転やスポーツを引き合い出して説明している。
例えば、車の運転の一連の動作、刻々と変化する道路状況一つひとつに意識を向けていたらドライバーは確実に運転に不都合を起こす。
テニスプレイヤーがサーブを打つとき、ボールへの力加減、投げる力、ラケットを振るをタイミングを意識すると、パフォーマンスが落ちる。
このように無意識下で行われる行動は、過去の体験や学習に基づく反応である。人々が新たな壁(判断や決断)に立ち向かうとき、初めて無意識から意識(状態)へと変わる。この意識状態になった時に人は学習し経験として蓄積する。そしてその経験はまた無意識へとしまい込まれる。これが繰り返されている。と。
つまり、意識がなくとも(してしなくても)日常生活は送ることができると、ジェインズはいう。
二分心が発生した理由
二分心は、一定の共同体として集団生活を行っていくために、神々の声という一定のルールを採用していたことで生まれた。つまり文明の誕生とともに発生した。
神々の声は一人ひとり(一つの共同体)異なる性格を持っていたため、人口が増えるにつれて集団行動においてどの声に従うのかというヒエラルキー(優先順位)を決める必要があった。
その為に人口が増えると、神の声に順位をつけるために神権政治が採用された。
土地は神の所有物でありその土地の管財人としての立場が王だった。故に神の声を代行する存在、王の命令が彼らのヒエラルキーの上位に君臨していた。
個々の行動は、自分の頭の中に響く声に則っていたが、集団行動を伴う場合、この王の命令のもと実行されるようになる。
これが正しければ当時の神権政治は、決して抑圧的なものでは無かったのかも・・・
二分心の崩壊
意識とは、何かを見たときに作り出す物語(予測や回想または説明)を構築するための比喩から生まれたものである。
物語化は同時に、心の中に時間的空間(過去、未来)を生み出した。
この心の中の空間が意識を生むきっかけとなった。そして意識顕現のトリガーとなったのが文字の出現だという。
同様の〈二分心〉を共有しない文化間においてなされる交流
次第に、人口の増加や、内なる思想(神の声)が異なる部族間の交流が増えると、お互いの神同士が対立しコミュニケーション不全に陥る。
そこで文字を利用し、神々の声は文書化されることになった。文書化とは、内観で知覚していた声を外に出すことだ。これにより、声を超える権威ができたという。
文字を識別するようになった人々は、言語分野を司る左脳が発達し右脳とブリッジ(結合)するとともに意識が顕現した。
やがて意識と神の声が融合し一つとなる。これが神々の沈黙に繋がった。
このように二分心は、文字(言語)の普及と成熟、文明の複雑化(人口の急増)による社会組織のテンポが速くなることで神による統制が取れなくなり崩壊することになった。
二分心の崩壊は個人差があった
シュメールやマヤのように突然文明の痕跡を無くし、また新たな文明が興るように二分心の文明は崩壊しやすいという。二分心の崩壊は文明ごとに時期が異なるので、意識を持つ集団、持たない集団で文明間で格差が生じていく。
個人間のやり取りでもこのような格差ははあったはずだ。 二分心の人々は、やがて損得や感情で行動するようなる意識を獲得した人々に淘汰されていく運命となる。
叙事詩イーリアス/古代ギリシア
最古期の古代ギリシア詩作『イーリアス』は、紀元前1250年頃に勃発したトロイア戦争の様子を描いた叙事詩である。
この書物は二分心時代の貴重な記録として、古代人の心の『神』と呼ばれる部分と『人間』と呼ばれる部分との関係をうかがい知ることができるという。
『イーリアス』には、精神的な事柄を表現する言葉がない。正確には現代では精神的なものを指す単語も、より具体的で客観的なものを指している。(例:psycheの意味は「血」「息」→後世では「魂」「意識ある心」)イーリアスでは後の時代に付け加えられた記述ほど、主観的な表現が増える傾向がある。
イーリアスの言葉は感情ではなく事実を淡々と述べる。神の言葉は無駄がなく必要なものがシンプルな形で提供される。この様式美が五七五のような詩や歌の定型文の基礎となった。
二分心時代の『人間』とは、今日の僕たちが『意識』する『私は人間だ』という認識とははまったく違うものだという。
彼らは自分の内観から湧き上がる感情や欲求というものを知覚するものの、それは自分のものとして認識していなかった。
おそらく話し合いをする時に、『僕の神はこう言っているが、あなたの神は何と言っている?』という感じの会話だったはず。
死者との対話/古代エジプト
古代、死者(神々)との対話が一般的文化であった時代があった。
その一例として古代エジプト時代の民の手紙が残っている。
この手紙は、妻から亡き夫(神官)へ宛てられたものである。
最近、家の召使が近隣の乱暴者に痛めつけられて困っています。あなたはどうしてそれを見て見ぬふりをするのですか。召使であれどこの家族の一員です。あなたがこの問題に真摯に向き合う事をしなければ、これからの私たちの家系の繁栄は望めないでしょう。
死者への手紙は、まるで生きている人間に宛てられて書かれたかのような内容になっている。
古代エジプトでは夜に死者の魂が戻ってくると信じられており、このような死者との対話が古代エジプトでは日常的だった。
ただし、手紙(文字)を通して対話を試みようとしていることから、彼女の場合、すでに二分心の崩壊を起こしていたと考えられます。神官の妻という立場からも、身分が高く文字リテラシーを有していたために内なる声が聞こえなくなり、手紙という物質を媒介して死者との対話を行おうとしていた。
従って、死者からの返答があったのかは疑問が残ります。
神の声とは何者だったのか
神々の声の正体とは何だったのか。
実際に脳研究において、右脳の機能を活性化させる実験を行ったところ、健常な被験者であっても霊的現象(幻聴や幻覚、気配)を体験するという結果が出ている。
ジェインズは人間が集団で生活を営む遥か昔、山で単独(少数グループ)で狩猟採集を行いながら生活をしていた頃の記憶(常に死と隣り合わせだった頃)ではないだろうか、と推察している。
彼らの子孫が同じような状況に陥った時、本能的な直観(行動への想起)が、右脳優位の彼らには音として、つまり声として聞こえていたのではないか。これを二分心の人々は神々の指令として認識し受け取っていた。
音が声へ変換されたもの
右脳が主体だった狩猟採集時代、原始的生活の中で発声した声を識別する能力が次第に養われていった。
危険か安全か、禁止か促しか、否定か肯定か
「あっ」と「あ゙ーっ」とか「おっ」とか「おう」とかによって聞き分けてたのかな
音によって、物事を判断するための羅針盤が生まれた。やがて口承によって音に意味を付与された二分心時代の人々の一般的な常識となったとき、記憶された訓戒的・教訓的な経験は、はっきりした言葉に変わり、本人に何をすべきか「告げた」のである。
まさに神々の指令
聞き手側はこの内なる声を制御することが出来ない。つまり声から逃れることも逆らうことも許されない。この声を無視することは負の結果(失敗や死)に直結するからだ。
だからこれら声は、訓戒的(指示、命令系)な言葉に変換され、聞き手側はこの声に抗う事はできず、まさに創造主、神々からの命令として認識された。
故に声は自分の記憶の中にいる故人、親や指導者、王ら先祖らの上位の存在の声に変換されて受容されていた。
この声を聞くきっかけとして指示を仰ぐ、想起するために偶像が機能したと考えられる。
古代の死生観
古代エジプトのような大規模な埋葬は、明確な理由なく作られたのではない。
彼らに故人の声が聞こえている以上、肉体は消失したが故人は存在していると認識されていた。つまり彼らにとって故人は死んでいない。
故に文明の中心には神殿が建てられ偶像を祀り、『冥界で生きている』彼らのために衣食や豪勢な墓を要請したのである。
『二分心仮説』から考える古代エジプトとピラミッドの謎↓
統合失調症
神々は中枢神経系の産物だという。
神々の声は、精神疾患と呼ばれる病気に見られる幻聴によく似ている。統合失調症患者は、幻聴を自分への攻撃や批判として聞く傾向がある。
これら幻聴は平常時(安静時)には見られず、一定のストレス下に置かれた時に生じやすい。同様に古代人が困難や選択を迫られた時に内なる声を受け取っていたとみられる『イーリアス』の内容とも重なる。
健常者はこの本能的訓戒が聴こえるための条件(閾値)が高い。なぜなら理性的な左脳の働きによって抑制されているからである。
現代では、統合失調症患者のように左脳の言語野(意識)と神の声が対立するため不都合が生じる。一方で、意識を持たなかった当時の人々はこの神々の声を、自分への命令だと素直に受け入れていた。
この二分心状態の古代人と、現代人の違いはこちらの記事で深掘りしていますので合わせてチェックしてみて下さい。
統合失調症は現代の文明とずれているだけで症状は病気ではないのかも・・・
神の消失と宗教勃興
二分心時代、神は常に人々のそばに居た。
文字の発達によって意識が顕現したと同時に、神々の声は聞こえなくなった。
頭の中の訓戒が消えた時、人々は混乱に陥ったという。
今まで使っていたスマホがうんともすんとも言わなくなった状況を思い浮かべれば、分かりやすいかも。
バッテリーという概念を知らなければ、なんでー?ってなるね。
古代人は神々が人間と「面と向かって」話さなくなったと理解し、やがて神々への祈りや占いが文明社会の中心的な位置を占める行為となる。
つまり宗教とは、声なき神に助けを求めるようになって初めて、成立したものなのだ。
神の消失の暗示
当時人々から神が消えたことを暗示する石彫がある。
右絵はハムラビ王が、神マルドゥクの言葉を聞き取っているところ。紀元前1750年頃のもの。
注目する点は、王と神が対等に描かれているところ。神の前に立ち一心にその声に耳を傾けている。
神々の沈黙238Pより引用
神々の沈黙266Pより引用
一方、紀元前1230年のアッシリア祭壇の彫刻。こちらは神の玉座が空席である。
神々の声が消失したとされる時代は、王が神の前に跪き、啓示を『請う』かたちへ変化している。
日本にもあった二分心時代
そうなると気になるのが、日本にも二分心だった時代があったのかという点。中東文明ではジェインズの仮説では3000年前を境に変わった。そのきっかけは集団生活と文字の誕生。
以下は個人的な見解です。
空白の4世紀
突然のように出現した巨大な前方後円墳が大和から広がりを見せる3世紀後半~5世紀初頭は、具体的な記録が無いので空白の4世紀といわれています。
エジプトのピラミッドと同様、日本の巨大な古墳もある時代に集中して作られているんですよね。
古墳時代に入ると人口が急増します。また豪族による巨大権力者が統治する社会体制となります。
よって二分心時代だったシュメールの王権政治と同様、この時期が日本の二分心時代ではないかと推察します。
つまり弥生後半~古墳時代に向かうとともに二分心の人々が増え始めた。3世紀頃からの人口急増によって二分心は4世紀頃にピークに至り、同時に文字(漢字)が大陸から渡来し普及したことで二分心崩壊が発生したのでは。
特に人口が多かった地域(近畿周辺)に古墳が多いのは、集団生活で発生した二分心の人々が、権威ある存在から声を聞こうと巨大な墳墓(前方後円墳)を作ったからではないだろうか。
そして古墳は5世紀後半以降、突然作られなくなる。これもシュメールや古代エジプトと同様に、神々の声、二分心を経験した人々が淘汰され途絶えたからではないか。
その後6世紀に仏教が伝わり、すでに神話と化した二分心時代の神の声を、宗教(仏教、偶像崇拝)というかたちをとって大仏や菩薩へ(神への祈り)へ求めた。
この辺はあくまでも想像ね。ロマンはある。
天皇が現人神だった時代
日本の二分心の時代を推察する材料として、欠史八代を含む第十代天皇まで神事は無かったと言われる点です。
それまでの天皇は神憑りがあり現人神であった故に神事は必要とされなかったと、東大名誉教授の矢作直樹氏は言います。
次第に天皇から神通力が弱まっていくと同時に神事が始まった。
Naokiman 2nd Channelの動画より引用しています。東大名誉教授が語る『この世の真理』とは?!
Naokiman 2nd Channelの動画より引用しています。東大名誉教授が語る『この世の真理』とは?!
それ以降は神頼みではなく人類が主体性を持って自立していかなければならなかった。というお話からもこの頃に神々の声の消失、いわゆる二分心状態の崩壊があったと考えられます。
第十一代垂仁天皇は紀元1世紀頃に存在していたと考えられており、日本に文字の登場した時期とちょうど重なる。日本で文字が使われ始めたタイミングは下原遺跡のすずりの遺物などから、紀元前1世紀ごろと見られている。以降文字の普及とともに権力者側の二分心の崩壊が始まっていったと考えられます。
文字が発達し、人類に意識が顕現したことによる、中東文明の神々の声の消失の時代の流れと非常に似ています。
人類が再び神々の声を聞くことはあり得るか
意識を持った人間に生まれたのはエゴである。エゴは保身のために過度な精神的、物理的な侵略を行ってしまう。このエゴが現在の高度文明を生んだのは間違いないが、 同時に無用な争いをも生み出した。
現代は産業革命によってデジタル化、AI化によって合理的かつ効率化を最上とする時代である。生産や物流に影響を及ぼしたのが産業革命であり資本主義である。
その合理性は次に人間へと波及していく。人々は自分の意見を押し殺し、AIのアルゴリズムシステムに沿って行動を並べ替えられる。あらゆる行動は分類されていく。都市の効率化構造が人流を画一化させるように。
やがて人々は一人1台のスマートフォンの進化系、chatGTPのようなアシスタントAIが付き、そのAIの声に従うように行動するようになるだろう。
その人間の心は神々からの声に従っていた古代の二分心の人々と形は違えど同じではないだろうか。
神々の声は消えていない
現代の大多数は神々の声は聞こえなくなった。が、神々の声が本能に刻まれた訓戒であるならば、聞こえなくなっただけで『消えてはいない』。脳が統合されたことで、自分の声として認識され、記憶の底にしまい込まれているだけなのだ。
毎日の生活の中で繰り返し行われる思考の中に、今でも神々の声はまぎれている。
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