阿波と瀬織津姫を巡る

古代日本史から消された土地と神々

 3/20-3/23、瀬戸内海周辺を探索して参りました。淡路島から四国へ入り、瀬戸内沿いを時計回りに進みつつ、日本の歴史に触れるドライブです。今回の大きなテーマは二つテーマは古事記に登場しない二つの謎。阿波と瀬織津姫です。

 不思議なもので去年(令和6年7月4日)伊勢・奈良を訪れる前日の夜に伊勢神宮の荒祭宮の存在を知り、行かなくてはと急遽予定変更した伊勢神宮内宮。その祭神がかつては瀬織津姫だった・・・と知ったのはつい最近。

 以降訪れた神社、意図せず瀬織津姫を追っていたようです。

 これは何か縁がありそう、という事で瀬織津姫同様、日本の歴史から遠ざけられている阿波に何かヒントがないか行ってみることにしました。果たして何か掴めるのでしょうか。それではどーぞ!

一日目。静岡から淡路島へ

 3/20昼頃出発。まず最初目的地を淡路島PAに設定。高速道路を約500km弱ひた走ると、日が暮れる頃にようやく明石海峡大橋が見えてきました。淡路PAに到着した頃には日が落ちてしまい、一つ手前のインターで降りてしまったため予定に入れていた伊邪那岐神宮は見送ることに。

 淡路島はイザナミ、イザナギの二柱によって日本で最初に生まれた島。まずは初淡路島入島できたので良しとします。

 さて初日は移動中心で終了して翌日に備えて徳島の宿泊施設にチェックイン。

二日目。阿波を巡る

国津神発祥の地?津峯山~八鉾神社

 翌日、6時前に出発。

 今回のテーマの一つ、日本の始まりが阿波古事記説。一般には奈良伊勢が古事記の舞台と認識されていますが、阿波周辺に天孫降臨や出雲の地が徳島に集中していることから、奈良、伊勢よりも古く、古事記、日本書紀の元となる舞台が阿波なのでは、という説が注目されています。

 朝6時過ぎ、太陽が出てきました。まずはスカイラインという名のつく道を見つけたので寄り道感覚で行ってみました。津峯スカイラインです。

 小高い山みたいになっていて5分ほど走ると見晴らしの良い公園に到着しました。ちょっと逆光になってしまいましたが、街を見下ろせる風景スポットです。

 津峯スカイラインを後にして、最初の目的地だった八鉾神社です。

 八鉾神社の祭神、大己貴命(オオナムチ)は出雲大社の祭神『大国主』と同一神ですが、阿波古事記説によると、八鉾神社が発祥で出雲に分けられているそう。古事記に登場する出雲はこの阿波が舞台なのだそうです。

 皇太子殿下が参拝されているようでそれだけ重要な神社だということなのでしょうか。神社に向かって真っすぐに通る農道にも鳥居があって、昔は長い参道があったんじゃないかと感じる。その一直線上にはさきほど登った津峰山があってその終点に津峰神社があります。そこの祭神は出雲の太陽神とされる賀志波比売命です。この関連性も何かありそうですね。

日本一低い山、弁天山

 次に訪れたのは日本一低い山、弁天山。頂上には厳島神社が建てられており御祭神は水の神、市杵島姫命です。

 イチキシマヒメといえば前回訪れた瀧神社の祭神である瀬織津姫と同一とされる神様です。セルフ社務所にはおみくじやお守り、お札などが置かれていました。

はりねずみ
はりねずみ

 なぜか福山雅治の写真が祀られています(笑

 古事記に登場しない謎の神様である瀬織津姫も今回のテーマの一つ。なぜ日本は違う名前を多く兼任する神様が多いのでしょうね?

天岩戸別神社

 続いて向かったのは天岩戸別神社。天照大御神が岩隠れした舞台とされる場所です。この神社は大河原高原へ向かう途中にあるのですが、とにかく道が悪い・・・ほぼ一車線、整備されていない道路をひたすら上っていきます。しかもシビックで・・・(笑

西側ルートは狭路&悪路です。
リサ
リサ

 死ぬかと思ったぞ・・・

 あとで調べて分かったのですが、天岩戸別神社までは東側ルートが正規ルートのようです。今回使った西側ルートは狭路、悪路なのでおすすめしません。

恐らく正規ルート

 駐車場もなかったので、この看板の手前にある路肩スペースに車を停めて神社へ向かいました。手力男神の塚までは歩いてすぐ。1分ほど。そこから神社までは5分ほどの山道を下っていきます。

 3つの磐座(手力男の塚)は三柱の神々を表していると云われています。こちらの磐座は奥宮扱いとなっており、里宮はさらに5分ほど下ると見えてきます。

 本殿への階段の石には、意図的に開けられた盃状穴という穴が見られます。段差がまちまちなので気をつけましょう。

御祭神 天手力男神 天照皇太神 豊受皇太神

ユダヤ信仰の形跡

 続いては美馬市、磐境神明神社へ。ここは全国でも珍しい形式の石室造りが残っており、その形は古代イスラエルの祭祀場と酷似しているそうです。これがいつ作られたのかは不明ですが、発見は江戸時代だったようです。

 急な階段を上った山の頂上に作られています。現在5つ祭壇には日本の神様が祀られていますが、古代イスラエルの痕跡が残っていることから、もともとユダヤ人が使用していた信仰跡を再利用したのではないかと。

 ここは神社というよりは古代遺跡、山の上に作られた古墳のような雰囲気があります。もしかして当時は土で覆われていたのでは?と思わせます。少なくとも直感的に日本ぽくはない・・・

 そして意味深なのがこの遺跡に隣接している神社の名が、白人神社。(しらひと)

リサ
リサ

 意外と昔の日本はグローバル社会だったってこと?

 江戸時代まで見つからなかったということは、この石室は土で埋まっていた、つまり古墳の内部が露出したものなのでは・・・とも考えられます。

 奈良にある石舞台古墳も、あれ単体で残っていたのではなくもともと土で覆われていたらしいです。
構造としては古墳時代以前、もしユダヤ系であるならばさらに起源は古代エジプト人のピラミッドにまで遡って繋がっていることになりそうです。

紫雲出山

 次に香川方面へ抜けて紫雲出山の山頂へ。この周辺は竜宮城、おとぎ話の浦島太郎伝説の舞台とも云われているそうです。霞が玉手箱を開けたような淡い幻想的な風景を作り出しています。

 この山頂付近には弥生時代の生活跡が出土しているそうです。当時の人はこの風景を見て何を思ったのでしょうか。遊歩道を少し入ると、手が入っていない自然そのままの森が残っています。巨石もゴロゴロ残っていますね。

天空の鳥居、高屋神社

 最後に訪れたのは、別名天空の鳥居と云われる。高屋神社です。

 ここへのアクセスは南側から徒歩、北側からの車の乗り入れが可能ですがなかなかの狭路で、インスタ映えの地のため交通量が多いと判断して今回は南側から徒歩でアクセスしました。徒歩で40分程度。ちょっとした登山になります。

 見どころはやはり鳥居越しに眼下に広がる街並み。インスタ映えを狙った若者や海外旅行者で溢れかえっていますので、雰囲気メインで訪れる方はご留意下さい。こちらの御祭神はコノハナサクヤヒメとニニギノミコト。騒がしい鳥居周辺とは裏腹に境内はシンとしています。

 世間ではオーバーツーリズムの問題が各地で噴出しています。

 対馬市にある和多都美神社では2025年3月23日以降、氏子、崇敬者以外の立ち入りを禁止する声明を出しました。

 外国人観光客による極めて重大かつ許されない不敬行為が行われたことによる。そうです。

 もともと日本の神様は寛容だと、これを理由に何をしても許される、日本人ならばそのような解釈に至ることはないと、思います。しかしながら、神社仏閣をテーマパークのように扱う旅行会社、メディア、そしてそのような流れを先導する政府・・・お金のために日本の文化を消費の対象にしてしまった責任は重いと思います。

 今まで性善説で成り立ってきた神聖な境内が、これはダメ、あれはダメと規制されていくことに日本の伝統文化の崩壊を感じてなりません。

 ただ神社側も、維持のために費用がかかるわけで、お金と伝統を天秤にかけるジレンマに陥っていると察します。

 こんな感じで初日の神社巡りは終了です。明日に備えて今治まで車を走らせて宿泊施設へチェックインしました。

三日目。今治から神戸へ

 3日目。この日も6時頃出発です。春分から始まった瀬戸内海巡り。幸いこの4日間は天候に恵まれました。

日本総鎮守、大山祇神社

 四国から来島海峡第二大橋を経由して大三島へ。タンカーが通るからか、島々を繋ぐ橋の高さに竦みます。周囲の島の山と同じ目線で走っているのでまるで空を走っているような感覚になります。

 高所恐怖症だとちょっと怖いかもしれません。大三島ICで下車し島内をしばらく走ると、大山祇神社へ到着。

 僕の地元にある三嶋大社と同じ大山祇命を祭神としており、日本総鎮守の二大神社として必ず参拝したい神社でした。

 

 大山祇命は軍神としての側面があるという事に驚きました。

 静岡県の三嶋大社ではあまりそんな印象がなかったからです。武功や海上交通の神様として祀られている大山祇神社では、三嶋大社と空気感は同じながらもその印象は異なる気がしました。

 静岡県三島の三嶋大社は、もともと下田の白浜神社から遷座されています。そこには妻のイコナヒメと相殿で祀られていた。また、富士山周辺には数多く、娘のコノハナサクヤヒメが祀られる浅間神社があって、この一帯は大山祇の家族の地のような気がします。

 僕の印象ですが、静岡県の三嶋大社に祀られる大山祇は大黒柱、つまり家のお父さん的な雰囲気。一方で大山祇神社は、軍神、水軍や武功の神様で、境内の雰囲気も凛として凪のような静謐さがある。こちらは仕事モード。大山祇神社は荒魂、三嶋大社は和魂。そんな気がしました。

 こちらでは少し強い願いを伝えてみても良いと思い、これからどうありたいかをお伝えしました。

気になって仕方ない井関三神社

 因島、向島を経由して本島へ。山陽自動車道を経由して兵庫県、井関三神社へ。

 今回のテーマの一つ、瀬織津姫の謎。前回考察した際に発見した物部、ニギハヤヒと関連性のあるレイライン上にある謎の神社です。

 瀬織津姫はニギハヤヒの妻であり、古事記に登場せず日本史から消された存在。この背後には、縄文の信仰、物部-蘇我の争い、藤原氏の思惑、神話に登場する国譲りが絡んでいると個人的には考察します。

 井関三神社から北の方角約4.5km先に奥宮があり、そこには磐座が祀らているようです。境内には奥宮遥拝所が設けられています。

 こちらも道路を挟んだ反対側へ参道と思わしき道が続いています。グーグルマップで見るとその先には天祇神社。祭神は天照国照彦火明命。つまりもう一つの天孫降臨、ニギハヤヒです。創建が1500年前という事でかなり歴史があるようです。この一帯も物部系の信仰があったことが伺えます。

 拝殿の裏側に刻まれた神紋がこれまた意味深です・・・三つ巴紋の背後に十二葉菊紋ですよ・・・これはタケミカヅチに見張られているような・・・十二葉菊紋は足利家とも関連があるようですね。

 そんな物々しさが隠れる井関三神社ですが、実際は穏やかな空気が流れる神社でした。

 土曜日の午後ともあって高速も渋滞が始まっていたようでした。神戸から大阪、京都を抜けるには時間がかかると判断して神戸市内で一泊することにしました。

四日目。六甲周辺探索

 4日目。日曜日なので混雑し始める前に帰路に就く予定。せっかくなのでその前に六甲周辺を探索することにしました。

 芦有ドライブウェイ。東六甲展望台で日の出待ち。6時15分頃日の出。

 最後に訪れたのは六甲比命大善神社。こちらの神社は手水舎、社務所もない磐座をご神体とした自然信仰の神社です。

 祭神は瀬織津姫。この巨大な磐座のどこかに瀬織津姫が埋葬されたと云われています。ところどころ人工的に配置されたような磐座。見方を変えれば石棺のようにも見えてきます。

 ニギハヤヒと瀬織津姫は恐らく縄文信仰の神だと思われます。故に磐座(山)と川(水)は当時かかせない命の恵みを与えてくれる存在だったのでしょう。もちろん太陽も大切だったはずですが、それは弥生以降、稲作が普及していく過程で天照大御神が引き継いでいったのでしょうか。

 拝殿は近年建てられたプレハブ小屋で中にはお札やお守り、資料関係がおかれていました。瀬織津姫は拝殿の奥、磐座のあいだに祀らているようです。

次は熊野?

 ウサギ岩の背後に回ると、そこにも石棺のような巨石の裏手に、熊野権現、八大竜王が祀られていました。

 なんで熊野?と思い調べると熊野権現で検索をすると、予測変換で瀬織津姫が出てくる・・・瀬織津姫は、かつては熊野本宮の神だったようです。

 熊野といえば那智の滝で、瀬織津姫は滝神、水神であり、那智の滝が瀬織津姫そのものだという説があるそうです。

 修験者の祖“役行者(えんのぎょうじゃ)は、神の置き換え企む時の天皇(おそらく持統天皇)から、“瀬織津姫”を護るために封印したと言われています。

 前回考察した国譲り神話と大化の改新に感じる共通点、隠し切れないニギハヤヒ王朝の痕跡・・・

 諸外国へ日本の皇統の正当性を示す必要に迫られていた時代。持統天皇の背後にいる藤原不比等。やっぱりここに辿り着く。不比等は大化の改新に関与した中臣鎌足の次男。

 熊野本宮大社には「滝姫社」の名の摂社があるようですが、祭神欄における滝姫社の項は空白となっていて「祭神不詳」であり、これが瀬織津姫であることの黙示らしいのです。

リサ
リサ

 永久欠番みたいな感じ?


 調べてびっくりしたのが、匿われた瀬織津姫は、和歌山県「熊野三山」→ 静岡県「伊豆山神社」→ 岩手県遠野「伊豆神社」→ 遠野「早池峯神社」ルートで移動している、という説。四角藤蔵が伊豆より護り伝えたのが、“瀬織津姫命”だった。と。

 伊豆!?・・・って地元なんですが・・・

 さらに伊豆の国市広瀬神社に瀬織津姫の痕跡がある、という考察が出てきてたまげました。広瀬神社は、氏神である大山祇神が下田から三島に遷座する過程でしばらく祀られていた場所。祭神は溝樴姫命(みぞくいひめのみこと)、くいの字が杭ではなく『樴』がなぜか使われている点、外二神の名が不詳。という謎の神社。

 静岡県三島市にある瀧川神社の祭神は瀬織津姫であり三嶋大社の祭祀において重要視されている神社。ここで氏神神社(三嶋大社)と瀬織津姫が繋がることになりました。

 広瀬神社には高校受験の合格祈願にもいったゆかりのある神社なのです。

はりねずみ
はりねずみ

 そうか、これは次は熊野に行けということか・・・?

日本、そして自分のルーツと神話巡り

 僕は日本神話に興味を持ってまだ1年くらいですが、目的を持って各地の神社を巡るのが最近面白くなってきました。

 昨年(令和6年)以降、龍神の地や水に関わりの深い神社やスポットばっかり巡っている(しかもアクセス困難)のは、自分でも不思議なんですが・・・瀬織津姫に動かされているような気もします。多分、瀬織津姫を筆頭に、日本古代史の隠された事実を知っている人はたくさんいるのでしょうが、現地まで自分の足で赴き感じた疑問を次の目的地へ求めていくこと、つまり自分の肚に落とし込んでいくことが大切なんだと思います。

 ただ、とにかくアクセス困難な場所が多い。足腰が弱くなる前に行きたいものですが、こういった歴史的、信仰スポットに興味を持つのは年齢を重ねないとなかなか・・・というところ。

 気になったらその時に行ったほうがいいですね。

天孫降臨と中央構造線

 これは今後古代日本史を考察する上で一つの個人的な仮説なのですが、天孫降臨と中央構造線がかなり関連が深そうな気がしています。

 というのも、中央構造線沿いには主要な神社仏閣や神聖なスポットが集中していて、これは磁場が影響しているのではと。古代人は現代人と比較して磁場などの可聴周波数帯がずれていた可能性があり、磁場の強い場所を感じ取る力に秀でていたと考えています。

 とすれば中央構造線上の磁場が発生させるエネルギーを神聖なものとして捉えていた可能性はありそうです。

 そうなると、神聖な場所に神社が建てられた、と思いがちですが、個人的には磁場の強い場所に近づくことができなかった、方が有力な気がします。故に山が不可侵な場所の対象になっていったのです。

 一方で現代人はその中央構造線沿いに容易に近づくことが可能なのはなぜなのか。ここに古代人と現代人の脳構造の違いが影響しています。磁場を強く感じ取る右脳が、左脳の発達に伴って相対的に弱まった。これによって現代人は中央構造線を横断することが可能になった。

 天孫族とは、現代人に近い、すでに理性を獲得済みの渡来人であり、出雲族とは、右脳優位な動物的な感覚を色濃く残した縄文人であった。とするならば・・・

 天孫降臨とは、中央構造線の南側、黒潮の流れに乗って太平洋側に辿り着いた渡来人(海洋民族)が、中央構造線を越えて北側の出雲へ渡ってきた事件なのではないかと推測しています。

 この仮説はまた別の記事でまとめたいと思います。

 

はりねずみ
はりねずみ

 お楽しみに!

 

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