瀬織津姫とニギハヤヒの謎-国譲りと大化の改新【エンタメ考察回】

 3/9は岐阜県にある瀧神社へ参拝に。

 長泉沼津から一宮木曽川まで高速を使い岐阜市内で一泊。翌日早朝に瀧神社を目指します。

 朝4時過ぎ。気温はマイナス2~3℃で底冷えするほどではなさそう。路面も凍結なく瀧神社入口まで到着。夜明けを待ちます。

 日の出時間は6時13分。あたりが明るくなると同時に入口の鳥居が姿を表してきました。

 目には見えないけど確かに存在する感覚。普段忘れかけていた自然への畏敬の念を感じます。

 瀧神社の御祭神は瀬織津姫です。

 水の神様である龍神、弁財天、白蛇の化身だと云われたり、様々な神様の別名と云われ神道において重要な神様ですが、瀬織津姫はなぜか日本書紀、古事記に登場しません

神武より以前にヤマトを支配していたニギハヤヒ

 日本神話に登場する邇芸速日命(ニギハヤヒ)は、瓊瓊杵尊(ニニギ)よりも以前に日本列島に天下った天津神であり、瀬織津姫はニギハヤヒの妻である市杵嶋姫命(宗像三女神)の別名と云われています。

邇芸速日命(ニギハヤヒ)

 天照大御神の荒魂の別名が瀬織津姫であったという記録が抹消されている痕跡から、ヤマトに瀬織津姫を最高神とするニギハヤヒが治める王朝があったと考える説も。

 加えてニギハヤヒの天磐船伝説や瀬織津姫の龍神伝説から考えると、この二柱は縄文系の自然信仰から生まれた神様だと考えます。

 その性質からも、ニニギよりも以前にヤマトを支配していた説は説得力があります。

 ではなぜ先にヤマトを支配していたニギハヤヒではなくあとから天下ったニニギが実権を握ったのでしょうか?

 またニギハヤヒの末裔が、物部氏であることも興味深い点です。

 ニニギ、ニギハヤヒのあいだでどのような争い、交渉があったのかは判りませんが、藤原氏がニギハヤヒの存在を日本書紀に残した理由が天皇の側近として助力した物部一族への配慮だったとすれば比較的穏便なものだったと思われます。

 ただしその最高神である瀬織津姫の名は、天照大御神の存在を脅かすために隠匿せざるを得なかった

 ならばせめてもの歩み寄りとして、天照大御神の荒魂というかたちで収めたとは考えられないでしょうか。

 ところが、時代が下るにつれてその事実が都合の良くないものになっていった・・・

国譲り神話 ※超エンタメ考察

 調べていくとどうも、日本神話の国譲りと、大化の改新前後の出来事が重なってくる日本書紀、古事記編纂時期、乙巳の変はホットな話題だったはずです。つまり神話の物語を作るうえでの格好のネタであったのは間違いなさそうです。

 一説によると建御名方神(タケミナカタ)=蘇我一族で、建御雷神(タケミカヅチ)=藤原一族であり、国譲り神話は物部一族の復讐の物語ナノデハ・・・

 中臣氏が祀った地元の神が「建御雷神」、「建御名方神」はその対比としての神=すなわち蘇我氏だったのではないか。という説。

 物部氏は天皇家の脅威であった崇仏派の蘇我氏との政争の上敗走し、諏訪の地に逃げ延びました。これが丁未の乱。

 その後、藤原氏が乙巳の変において蘇我氏を滅ぼした。

 これは物部一族にとって蘇我氏への復讐の成就でもありました。

諏訪の奇祭

 ところで諏訪には鹿の首を神にささげる『御頭祭』という奇祭があります。

 鹿の首を75頭捧げるこの異質さ、これは縄文の自然信仰とはちょっと考えにくい。何らかの怨念や恨み、執念深さを感じるのです。

 物部一族は敗者でありますから、諏訪大社には服従の証、つまり蘇我一族側の建御名方神(タケミナカタ)が祀られている。(もちろん物部側としては不服ですが建前上受け入れるしかなかった)

 諏訪にあった鹿を祀る土着の祭祀をカムフラージュとして、蘇我氏を呪う意味での御頭祭でもあったと。

 偶然か必然か、乙巳の変において暗殺されたのは蘇我入鹿です。

はりねずみ
はりねずみ

 名前に鹿、が入ってますね・・・

 そんな中、藤原氏は乙巳の変で蘇我の怨念もろとも建御名方神(タケミナカタ)が祀られている諏訪に追放した。とすれば・・・

 因果応報。こんどは蘇我自身が諏訪の地に閉じ込められることとなった。コトシロヌシが物部側だとしたら国譲りを簡単に了承したのもうなずけるでしょう。

 一方で蘇我側(タケミナカタ)はこれに反発する。それがタケミガヅチ(藤原氏)によってねじ伏せられるのです。

 物部一族は蘇我へ御頭祭を引き継ぐ、その本当の意味は伏せたまま。だとしたら、蘇我氏は自分で自分を呪う祭祀を行い続ける。という恐ろしい結論に至るのですが・・・

リサ
リサ

 物部氏の執念が怖いぞ・・・

物部の祖神信仰の痕跡は

 物部一族が諏訪でニギハヤヒ、瀬織津姫を隠しながら信仰していたとすれば、恐らく物部一族が信仰対象としていたのは、現在の守屋山でありそれがニギハヤヒ、瀬織津姫だった。

 物部家が蘇我一族と対立していた頃、物部守屋という有力執政官がいました。

 つまり諏訪大社の祭祀を仕切る神長官守矢氏は、物部家と諏訪を繋ぐ重要な社家。

 守屋山には物部守屋を祭神とする守屋神社が鎮座しています。

物部守屋

 諏訪信仰にあるミシャグチ神はニギハヤヒ、ソソウ神が瀬織津姫だという説があるように、物部一族が諏訪に辿り着いて以降、土着の信仰神に自分たちの祖神を当てはめ、守矢と名前を変えて祭祀を仕切るようになったのでは。

 乙巳の変が起きた後、ニギハヤヒと瀬織津姫とともに物部一族は、蘇我氏の封印と同時に諏訪の地から離れた。

 その後、物部一族の末裔はどこに向かったのでしょうか?それが国譲り神話通りだとすれば出雲です。

 もともとニギハヤヒが支配していたヤマトは天皇家(藤原一族)の地であるため、戻ることができない。

 よって物部氏の新天地が出雲だったと考えます。

 藤原氏の要請で諏訪の地を明け渡す代わりに出雲に社を立てた。物部一族からすれば願ってもないことだったでしょう。それは藤原氏の恩赦的な面もあったかもしれません。

井関三神社

 この四つ巴の関係と繋がってくる神社が兵庫県にあります。井関三神社に祀られているのはニギハヤヒ、瀬織津姫、タケミナカタ、タケミカヅチの四柱。

 タケミナカタとタケミカヅチといえば諏訪です。そして諏訪の地を守る守矢氏(物部)の祖神がニギハヤヒ、隠匿された妻、瀬織津姫・・・

 この四柱が一緒に祀られているのはとても意味深ではないでしょうか。

物部神社ー井関三神社ー伊勢神宮外宮

 また興味深いのが、出雲にある物部神社と伊勢神宮外宮の直線状、しかもほぼ真ん中の位置にこの井関三神社が建てられていること。つまりこの3つがレイラインの関係にあるのです。

 これに気づいた時ちょっと鳥肌が立ちました。

 このほかにも物部氏の氏神神社石上神宮、もともと瀬織津姫が主祭神だった廣田神社もこのレイライン上にあります。

はりねずみ
はりねずみ

 ニギハヤヒと瀬織津姫が諏訪とゆかりがある、ということを示唆する神社ですね・・・

新天地出雲説 ※超エンタメ考察

 国譲りという出来事が考察した通り、書記を編纂したヤマト王権側、つまり藤原氏が主導あれば、出雲大社にニギハヤヒ、瀬織津姫の名は記すことはできません

 従って別の名で祀られていると仮定します。

 もし国譲りを簡単に承諾した事代主神(コトシロヌシ)が物部一族だとすれば、出雲大社の主祭神として祀らている大国主(オオクニヌシ)こそがニギハヤヒではなかったか。

 ならば瀬織津姫の痕跡もあるはず・・・ですが、藤原氏が天照大御神の荒魂と設定した以上、出雲大社に祀ること、これだけは許されなかったと。

 つまり国譲りが行われたタイミングで瀬織津姫の痕跡は全て抹消された。

 百嶋由一郎氏の講演録によると、「瀬織津姫神は櫛稲田姫の別名」としています。つまりスサノオの妻。

 出雲はスサノオが最初に日本最古の和歌を詠んだ場所。

 スサノオは役職名であり世襲制だったという説から、国譲りで大社を造りニギハヤヒが出雲へ入ったことで、ニニギ勢(伊勢)とニギハヤヒ勢(出雲)の二大体制となった。これが天津神と国津神の始まりなのでは。

 襲名はスサノオから大国主へ変更された。つまり大国主の初代がニギハヤヒ。

 冒頭に紹介した瀬織津姫が唯一登場する祓詞には「イザナギが禊を行った時に誕生した神」として瀬織津姫が召喚されている。

 とすれば瀬織津姫は、アマテラス、ツクヨミ、スサノオのいずれか・・・となる。

 もし瀬織津姫を匿うために前襲名スサノオの名を利用したとすると・・・出雲大社の最奥ある素鵞社のスサノオとは『瀬織津姫』なのでは・・・

 と、トンデモ考察はここまで。

 拝殿には神様の絵が飾られていました。左側は弁財天・・・?右側はウサギを抱えているので大己貴命ですね。

 日本の山と水をお護り頂いていることに感謝申し上げて次のスポットへ向かいます。

モネの池

 2018年以来の再訪。岐阜県関市、根道神社の境内にある名もなき池。通称モネの池

 こちらも透明度の高い湧き水が湧出しており、池に群生する睡蓮がモネの絵画のような美しい風景を作り出しています。

まさに動く絵画。です。

 根道神社にも参拝。御祭神は根道大神で、伊邪那岐、大山祇命、金山比古神です。高賀三山を信仰対象としているのでしょうか。

金山巨石群

 最後に訪れたスポット、金山巨石群、岩屋岩陰遺跡にはいくつもの巨大な岩が点在しており、その配置から天体観測に利用されていたものだと今でも研究が続けられています。

 最後に訪れたスポット、金山巨石群、岩屋岩陰遺跡にはいくつもの巨大な岩が点在しており、その配置から天体観測に利用されていたものだと今でも研究が続けられています。

 巨石信仰いえば古代エジプトのピラミッドや、イギリスのストーンヘンジを思い浮かべがちですが、日本にも岩に神様が宿るとされる磐座信仰が古くから存在しています。

 驚くべきことにこれら巨石群は5000年前の天体の観測に用いられていたことが、冬至や夏至の太陽の差し込みや、北極星などの位置の割り出しによって判明しています。

 5000年前といえばまだ縄文時代。しかも古代エジプトよりも古い時代の人々が天体観測の技術を持っていたことになります。

 これら巨石群は、全て天体の動きに合わせて意図的に配置されているそうです。しかもこれらはピラミッドの石とは比べ物にならないほど巨大です。(実際に見るとよく判ります)

 巨石群がたまたま天体観測に丁度いい配置になるわけもなく、エジプトピラミッドと同様どうやって動かしたのか、という謎が日本にも残されているということ。

 日本は海外と比べて古代遺跡未調査エリアが多くひょっとすると大発見に寄与できたりするかもしれませんね。

 都市伝説っぽくなりますが、

なぜか巨石の取り扱い方法が日本の口伝に残っている

 日本の各地には、口伝で口承されてきた歴史が古史古伝として数多く残されています。これらは政府に認められておらず偽書認定をされていますが、

 例えば竹内文書、九鬼文書や山蔭、愛智口伝によれば、磁場や音波を利用した浮揚技術や石を柔らかくする技術(鋳造かコンクリート?)などが古代では存在していたようです。

 物的証拠として世界中に巨石遺構が残っているので、これをトンデモだとかオカルトだと一蹴できないんですよね。

 事実、大阪城の基礎には最大108トンもの一枚岩が使用されており、わずか400年前まで人力で巨石を扱える技術を持っていたことが伺えます。

ピラミッド内部と出雲大社本殿

 出雲大社宮司「千家」家によると、古代出雲大社の本殿は既存の本殿より大きく、高さ48mの高層本殿だったと云います。

 古代出雲大社は長年、想像上の産物だと云われてきましたが、平成12年に出雲大社境内から、3本組にして1つの柱とする直径約1.35mの巨木が発見されたことで古代出雲大社が実在した可能性が高まりました。

 古代の出雲大社本殿とピラミッドの内部の不可解な共通点。

 それが大ピラミッドの玄室へ続く大回廊の長さと角度が、古代出雲大社の本殿へ続く階段と一致すること。

 この共通点は、大ピラミッドの内部構造が図面か何かで残っており、それが日本へ伝わっている事を意味します。(現状、大ピラミッドの設計図は未発見)

古代出雲大社のイメージ
大回廊と王の間

両者の建設時期は推定2500年ほどの隔たりがあり、なぜ一致するのか、なぜ同じ寸法にする必要があったのか?謎は深まるばかりです。

ピラミッド建造について、日本との関連を示唆する言い伝えがエジプトに残っている。

 紀元前300年ごろ実在した神官マネトが残したとされる記録で、こんな一節があったと云います。

 「不思議な方法によって、東方から訪れた高貴な人々が、エジプトにピラミッドを残して去っていった」

 東方から、もしこれが日本を指すのであれば、日本の技術がエジプトに伝えられ、逆輸入で入ってきた技術で古代出雲大社が作られた。ということになります。

 このエピソードは、天文学と巨石を扱う技術が縄文時代にあったことを物語る金山巨石群の存在と結びつくような気もしますね。

 先に取り上げたニギハヤヒはニニギ側よりも古く、つまり縄文の神です。ニギハヤヒは空飛ぶ石の船、天磐船で天より降りた、という巨石技術を匂わせる説話もとても興味深いです。

謎多き日本

 山、水、岩・・・古代人は僕たち現代人よりも自然の扱い方のプロフェッショナルだったのは間違いありません。

 古代人の知恵がやがて機械に取って代わっていく過程で、失った叡智があったとしたら・・・

 そう考えるとロマンがあって面白ですし、実際に現地を見て回ると日本古代史も一枚岩ではないことがよく判ります。

 自然消滅していった歴史や知恵、技術もあれば、意図的に隠され改ざんされてきたものもある・・・

 消滅しきれなかったもの、隠し切れなかったものが現地に行くと残っていたりするのはワクワクしますね。ネットでなんでも見ることができる時代ですが現地でフィールドワークでしか分からない事実や空気感が今後大切になりそうな気がします。

おまけ・・・

 恵那峡サービスエリア『おろし蕎麦カツ』なるものがとてもおいしかったので紹介。

 そば×カツがこんなに合うとは思いませんでした。この辺の名物なのでしょうか?恵那峡サービスエリアに立ち寄った際はおすすめです。

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