プロローグ 二分心仮説×史的唯幻論を考察する
なにやら凄い理論と出会ってしまった。
その名も唯幻論。
著者、岸田秀によれば、『人間は本能が壊れた動物』である。本能に頼ることが出来なくなった人間はその代わりとして自我を作り新たな心の拠りどころとした。という。
本能が壊れたことで、現実とダイレクトに繋がることが出来なくなった人間は、自我を通して現実を体験するように変化した。
それは食糧を得るためにいちいち貨幣を介さなければならない現代の経済システムがまさに象徴するように、人類は貨幣や言語という『幻想』に『価値』を付与し、それを自我によって『正当化』することで自己、世界を規定して、行動を選択するようになった。

壊れた本能は無意識化にしまい込まれ、人間は本能に直接アクセスすることができなくなった。という。
何故、人間は本能が壊れたのか?
岸田氏は、この件については人間の進化の過程で何らかの突然変異があった、としてその原因には言及していない。
僕はこの部分にとても興味がある。
本能が壊れた発端、唯幻論が残したミッシングリンクにヒントを投げかけるのは、心理学者ジュリアンジェインズの二分心仮説。
『遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた』
ジュリアンジェインズ/神々の沈黙
紀元前1000年まで人々は内観する意識持たず、内なる神々の声に従う生き方をしていた。という。

ジェインズの仮説は、本能が壊れる前の古代人の精神構造、そしてなぜ本能が崩壊し自我を持つことになったのか、という唯幻論を補完する重要な見解を持つ。
この二つの仮説の根幹には、人類が罹患している不治の病の病巣が隠されていました。
本能が崩壊した日
人間が初めて本能が壊れた日、それは紀元前1000年頃かもしれない。
当時、世界の文明の中心であった地中海における民族大移動こそが、本能の崩壊が招いた混乱であったと推察します。

さて、ジェインズの二分心仮説と、岸田秀の唯幻論、この二つが唱える『本能の崩壊』には共通点があります。
それは、壊れた本能の代替として、人間に自我が生じていると類推する点。
二分心仮説とは ジュリアンジェインズ『神々の沈黙』

ジェインズによれば古代人の脳構造は右半球と左半球が完全に分離しており、右脳に神々、左脳に人間が棲み分かれていた。という。
彼ら(左脳の人間と呼ばれる部分)は右脳に響く神々の声に従い、多くの人間が同期された集団行動を形成していた。→これは昆虫や動物の本能的な集団形成に近いと考えられる。
二分心仮説に登場する神々の声の正体は、幻聴です。その幻聴の源は先祖代々継承されてきた本能に刻み込まれた教えや掟。彼らにとって現実を構築するために幻聴は必要不可欠な情報であった。
二分心状態は、異民族の衝突によるコミュニケーション不全の解消を『文字』に求めたことで崩壊し、結果、神々は沈黙した。
本能が役に立たなくなったことで人間は自我を持つ(自我を代替本能とした)動物へ変化した。
二分心の崩壊は、本能が壊れたことで人間としての自覚が芽生えた(自我)という唯幻論を説明する重要なファクターになり得そうである。
岸田秀の推定する本能が壊れたきっかけは、紀元前1000年を境に崩壊した二分心を支えていた『神々の声の消失』ではなかったか。
ではなぜ本能の崩壊が発生したのか?
争いや感情による葛藤や苦悩に苛まれる動物は自我を持つ人間だけである。
動物や昆虫が行う集団形成や種の繁栄などの本能的な活動においてそもそも自我は必要ない。と岸田秀は云います。
つまり人間の本能が保たれていた頃、集団形成をしていく過程で何らかの問題が生じたということだ。
集団を形成していく過程で最も重要なものはコミュニケーション能力である。人間が本能から自我へ移行していく過程で、コミュニケーションの図り方に違いが生じた。と考えられます。
古代地中海を端とする欧米人のコミュニケーションの型を、日本人と比較してみると、ある特徴が浮き彫りになります。
コミュニケーションの型 欧米人と日本人の違い
日本人と欧米人の決定的な違いは、その自我を支える信仰の違いにある。
欧米人のコミュニケーションの型
欧米人にとっての自我の支えはGOD(唯一神)であり、それは共有クラウドのような存在だと表現します。
彼らにとって目の前にいる人間の意見は共有クラウドから引き出されているものだと認識するので、意見をぶつけ合う行為を行っても、相手に対してなんとも思わないのです。

故に欧米人の目線は常にGODという共有クラウドに向けられる。彼らは目の前の人ではなくGODに宣誓し忠誠を誓う。これが一神教の原理原則。
従って欧米人は、お互いの意思はすでに同一の神のもとで合意済みであると考えるため、自分の欲望をさらけ出すことに躊躇しない。
この合意が彼らの強い自我の正体です。
日本人のコミュニケーションの型
いっぽうで日本人にとっての自我の支えは全てに神が宿る(八百万の神)日本人にとって、目の前の人間である。
日本人の目線は、常に目の前の人間であり欧米人のような一方通行ではなく双方向になる。

お互いが神様である日本人は、主張が直接ぶつかり合い争いになることを避けるべく、自分の意見を主張する前に相手の意見を先回りして察する、という文化が生まれた。
日本人の弱い自我は、その場その場で合意を得続けなければならず、双方向的、つまり綱引きの均衡を維持する必要があるため。
文字ありきの欧米
欧米人と日本人のコミュニケーションの型の違いが分かりますでしょうか?
欧米はお互いの意思を積極的外に出し共有するため、文字ありき、日本は意思を悟られないようにするため、文字を必要としない。
つまり欧米人の型は、文字に起因します。
次に、欧米人の強い自我を支える、一神教を作り出すきっかけとなった文字を取り上げます。
歪な修復剤『文字』
紀元前1000年以前の古代人における自我の支えは、『音』でした。
二分心仮説によれば、この時代の自我は非常に不明瞭で、自己認識が弱く、強制力のある音(ことば)に操られる人形のような存在でした。

強い自我を持たない彼らは、右脳に響き渡る神々の声への抵抗力がなく、現代病と云われる統合失調症ような葛藤とも無縁でありました。
観音像という言葉が表すように、古代人にとって音が現実を構築するファクターであった。→つまり音は『現実を観る』ための要素→像から得るインスピレーションが内観に響く声(神々の声)となって行動を操り現実を作り出していた。のです。
文字の登場
古代地中海で起きた二分心の崩壊。文芸評論家、亀井勝一郎の言葉を借りるなら”「神ながら」状態であった彼らを支えていた本能が崩壊し、人間であることの自覚が芽生える、この過程に対して、応えなければならない何かが必要となり、そこに『文字』の存在があった。“

人間である自覚とともに生まれた宗教。聖書には『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。』とあります。
聖書が示すように、ことばは文字となり、やがて神に成り代わった。つまり言葉は人間を人間たらしめるとともに一神教という神を生み出した。
文字こそが強い自我を作り出す一神教が始まる最初のステップでした。
コミュニケーション不全の解消役『文字』
玉突きのように大陸全域で発生した異民族同士の交錯がコミュニケーション不全を発生させ、彼らの行動様式の支え『右脳が喋らなくなった』ことにより同期されていた集団行動が破綻する(これがジェインズのいう神々の沈黙である)
これを解決するため、共通項を見出そうとした。それを可能にしたものが文字だったと、ジェインズは考察しています。
この出来事によって人々は岸田秀がいうところの壊れた本能の代替えとしての文字が登場することで自我が芽生えてゆく。

文字は異なる行動指針(ムラ社会の掟など)を比較し共有し修正することが可能になった。
より大きな集団行動を同期させるための新たな指針となったのです。
劇薬だった文字
岸田秀が疑問として残した本能が壊れた『理由』は、異民族の混濁による文字の登場によって、人間は自己を確立する過程で、壊れた本能を埋め合わせる『修復剤』として自我が機能したことによる。

ところが、文字と一神教はお互いを補完する関係で、自我の増強が分断を生み、無意識下にしまい込まれた本能との対立を煽るドーピング剤の役割を担ってしまった。
そもそも民族間の戦争は本能が機能不全を起こしていることの証明である。と云います。
文明崩壊を繰り返す病の正体
人類の本能の機能不全

本能が正常に機能してるのなら、そもそも民族間の戦争など発生するはずがない。と云います。
戦争による大量虐殺、浄化などといった種の保存、繁栄に矛盾する行為。
このような一つの民族を駆逐、浄化してしまうような常軌を逸した行為を行うのは人間だけである。
蜂で例えるならば、通常、ミツバチとスズメバチのように異なる種は、お互いの縄張りを維持することで共存しています。
彼らは同じ蜂同士であるにもかかわらず、お互いを敵とみなし排除する。異民族とはそれぞれ縄張りを持った蜂のような存在ではなかったか。
僕の仮説に過ぎませんが異民族の衝突とは、ミツバチとスズメバチの縄張りが干渉したことによる防衛反応なのではないか。

古代人の葛藤
ジェインズの仮説によれば、古代地中海では、異民族の邂逅によって本能に支えられていた行動様式が停止し(神々の声の沈黙)大混乱(戦争もしくは社会崩壊)が生じた。
そこに、なんで意思疎通が出来ないんだろうか?という葛藤が生まれた。と思われます。
その葛藤が人間である自覚を生み出した。自覚は強い自我を作り出すエネルギー源となって共有手段である文字が生み出された。
このように、お互い意思疎通を図る努力が文字を生んだことを鑑みると、彼らは悩みながらも共存を望んでいたことが読み取れる。
当時の人々は、反発しようとする自我に、本能が歪んだ形で集団形成を促す。矛盾に苦しむことになった。
これまでの歴史が証明するように、西洋は文字という劇薬の副作用に悩まされ続けることになるのです。
そしてこの薬害を生じさせた西洋の致命的な欠陥が、『共同観念の分断』です。
人類の致命的な欠陥
人間は広い大陸内で分派していく過程で、各々持っていた共同観念の連続性が途絶えた。
その後、異なる観念に支えられたムラ社会へと分断されていった。

しかし生物的には本能で再び繋がろうとする、ところが、ムラごとに異なる観念に支えられた集団同士の共存はできず、自我の部分が拒絶反応をおこし戦争がおきる。
当時の地中海文明は、人類初のグローバル社会であった、とエリック・H・クラインは考察しています。彼らの文明は、かつて一度離散し、異なる文化を持った時点で、ミツバチ、スズメバチ、アシナガバチのように縄張りを持って生活を送っていた。
しかしながら、ムラ社会の拡大によって、縄張り同士が交流を持ったことで、本能と自我が歪み対立(精神分裂病)してしまったのです。
本能の暴走
一度手にした『文字』は雪だるま方式に自我を増強させ、自我によって無意識下に押しやられた本能が暴走する。本能は制御不能となり強迫観念として自我に影響を及ぼし続けます。
これが戦争という癇癪を起こす文明の精神分裂病の仕組みです。
これによって文明は片方が駆逐されるか、共存による自我の増強によって離散、必ず崩壊する運命を辿ることになりました。
ところが、それを認めてしまえば、種の繁栄が否定され、生物的に致命的な矛盾を抱えた動物であると証明してしまうことになる。
これに抗うために人類は『既 に 壊 れ て い た』本能を捨て、文明を維持するため、自我によって強制的に結びつく(一神教)ことを選んだ。と考えられます。
死に至る病
共同観念の分断という、壊れていた本能が暴走するきっかけが文字の登場でした。つまり病原に対して間違った投薬を行ってしまったのです。
戦争が無くならない理由は文明の精神分裂による、壊れた機械のように『衝突と離散』を繰り返す『死に至る病』が原因です。


本能が壊れた欧米、歪んだ日本
古代の理想郷 中央集権国家制の崩壊
ムラ社会の拡大に伴って定式化された農耕牧畜文明の最終地点は、大規模な人員を同期させるための中央集権国家制であった。
しかしながら、別の場所で勃興した文明との衝突によって、そのゴールがずれることになった。

古代から続く中央集権国家制(トップダウン構造)は強い自我を持つ大衆のもとでは成立しないという問題を孕みます。近代で戦争、革命が続くのは抑圧というネガティブ感情が自我によって生じるからです。
相互理解を目的で開発された文字は、大衆の自我を確立する一方で、中央集権国家との親和性が崩れ自滅する構造を生み出しました。
これが古代地中海において発生した、文明の同時崩壊、消失原因の答えではないでしょうか。
西洋がこの中央集権国家の存続に執着し続けたのは、文明が平和に維持されていた頃の、過去の栄光に囚われた人々の自我を惑わす強迫観念のようなものなのかもしれません。
自我による正当化
現在、人間は生まれつき集団社会を構築することが出来ない先天性の欠陥を持つ動物である。といえます。

本能の代わりに自我を持とうとした目的は、この人類に刻まれたDNAのエラーに対抗するための手段でありました。
自我とは、生物的に欠陥を抱えた西洋文明の葛藤、つまり自己を『正当化』するかたちで生まれた産物である。
精神分裂病を正当化しようとした試み(文字と一神教)が、西洋を生物的に矛盾した弱肉強食の世界へと移行させてしまった。
つまり、西洋では本能が治療不可能なほどにぶっ壊れてしまったのです。
本能の崩壊前夜、日本
であるならば、一つの種が分派しても共同観念の連続性が保たれていれば同じ行動様式を共有しているため、共存(融合)に問題は起こらない。
そのロールモデルが日本列島、僕たち日本人です。

古代人の精神構造と日本人
現代において、常に特殊な人種だと云われている日本人。
日本人は、古代地中海でおきた民族大移動以前における古代人の精神構造、『二分心』と非常に似た特徴を持ち合わせているんです。
①争いが少ない(平和主義)
②受け身
③権威ある立場の意見を簡単に受け入れる
④同調、集団行動主義
島国であった日本は、長い間、大陸側の強い自我に飲まれる事無く、弱い自我に支えられていた集団意識を持つ古代(縄文)社会の感性を近代まで持ち続けていた特殊な人種。
つまり、集合的無意識で繋がり合う本能に近い行動様式(二分心)を色濃く残している。
古代人の文字に頼らない、右脳がしゃべるという感覚はまさに阿吽の呼吸、以心伝心。と通ずるところがあります。

そう考えると明治維新までの日本列島は、集団形成においては本能と自我が矛盾しない正常な条件を持っていました。
想像するに、最初に日本列島に辿り着いた人間が縄文社会を形成し、共同観念を持ったまま分派していった、と考えられる。だからこそ近代まで集団意識が濃い、争いのない民族となった。
それこそが人類の文明社会にとっての理想の成長の仕方だったのではないだろうか。と僕は思います。
西洋の病に感染した明治日本
ところが、長らく染みついてきた日本的な感性が否定されるという事態を迎えた。
黒船来航をきっかけに、西洋が紀元前1000年頃に罹患した死に至る病が日本人の内部に侵入してきたのです。
これによって日本人の精神構造に歪みが生じてしまいます。

八百万の神は相対的であり、西洋のGODは一方的である存在のため、もともと持つ自我の支えが違う以上、同じものとして扱うのは無理があった。
日本が近代化していく過程で西洋を模倣すればするほど、もともと染みついている八百万の神との矛盾に苦しむジレンマに陥ってきた。
加えて近年、グローバル×デジタルのハイブリッドよって社会組織のテンポが一気に速くなり、本能と自我の乖離速度がより大きくなっている。
“日本のいう国は、かつて古代地中海、民族大移動を強いられた古代人が葛藤に苦しんだ精神分裂病に陥っている。”のです。
日本は近代化を経て今まさに精神分裂病という葛藤の中に生きています。
日本においての共同観念の破壊
第二次世界大戦の敗戦、GHQによる教育、言論統制、これによって、日本人の共同観念が破壊されることになります。
古代人が持っていた集合的無意識下での意思疎通が消えるのです。それは日本人の専売特許でもありました。
共同文化が消えることで日本人同士でコミュニケーション不全がおきつつある。
親切⇔無関心、議論⇔感情論、性善説⇔性悪説、可視⇔不可視、の対立の中で日本人同士でも不信が広まれば、文明の崩壊の土台が出来上がります。

ここに西洋の強い自我を模倣した近代化が薬害となって崩壊を促進する役割を担います。
戦後80年、このままいけば地中海文明の崩壊と同じことが間もなく日本でも発生するでしょう。
治療はお早めに
てんかん患者への有効な治療法は、なんと両脳を分離すること、だそうです。これは古代人の二分心の脳構造に近いのです。
これは古代人の生き方こそ、人間にとっての正常な生き方だった、と示しているかのようです。現代人が繰り返す争いの原因は両脳が近くなり過ぎたことによる、縄張り同士の争いなのかもしれません。
つまり、文字や理屈といった間違った投薬では、西洋の二の舞を踏む。ということ。
岸田秀は精神分裂病の治療について、このように述べています。
無意識下に隠れた本能が暴走することで自我と対立する。これが精神分裂病の症状であるならば。隠れた本能を、自我の意識下に置くことでコントロールし、症状を改善することができる。

僕たちはこの先、文明の精神分裂病と闘い、本能の崩壊を回避しなければなりません。日本はまだ不可逆のラインを超えていない。
加えて、西洋の死に至る病が生み出し続ける歴史をしっかりと見極める判断力が問われるでしょう。
早期治療するには、まずは日本の歴史と向き合い、無意識下にしまい込まれた過去の記憶を取り戻すこと、なのだろうと思います。
治療はお早めに。
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