ディベート力が引き起こす病
近代日本における欧米化、グローバル化によって欧米人の強い自我の賜物である『ディベート力』こそが、日本人にとってあこがれ、目指すべき姿だという観念を植え付けた。
果たして本当にそうだろうか?
日本人は近年、自己主張、表現力、コミュニケーション力が最上である、という幻想に囚われているように思います。事実、企業が求める人材の条件にこれら能力が必ず挙げられています。
いっぽうで、近年の日本は人々がいがみ合い、批判をしあう、ぎすぎすした社会になってしまった。
日本の精神分析学者、岸田秀氏が提唱した『唯幻論』をもとに考えてみると、ディベート力は日本人にとって深刻な病を引き起こしている病巣であると判明します。
欧米人は『理性や論理』で動き、日本は『感情や人情』で動く、という大きな特徴がありますが、唯幻論に基づくとそれぞれ自我の支えが根本的に異なるため。だと云います。
ディベート力の高い欧米人の自我を支えているのは『一神教』です。
彼らの目線は第三者的な存在の同じ神を捉えており、それは『共有クラウド』のようなものだと表現しました。

彼らにとって目の前にいる人間の意見は共有クラウドから引き出されているものだと認識するので、意見をぶつけ合う行為を行っても、相手に対してなんとも思わないのです。
この合意が彼らの強い自我の正体です。
いっぽうで日本人はどうでしょう。
日本人の目線は相手の人間です。なぜなら『多神教』の日本では相手にも神が宿っているからです。従って、相手の意見は同時に相手の感情が乗ったものと判断するため、食い違う意見をぶつけ合うことは、その人の人格自体の否定だと同義なのです。
だから日本人は言い争いになると、もう顔も見たくなくなる、関係を絶つようなことになりがちです。
日本人の自我が弱く見えるのは、その場その場で合意を得続けなければならず、双方向的、均衡を維持する必要があるため。

お互いが神様である日本人は、主張が直接ぶつかり合い争いになることを避けるべく、自分の意見を主張する前に相手の意見を先回りして察する、という文化が生まれた。
日本人が意見をぶつけ合おう、言いたいことは言う、という欧米式のコミュニケーションをとると、感情が働いてどちらかが我慢を強いられるか、もしくは争いになった時、個人への人格攻撃へと変貌するのは当然だと言えます。
反対に欧米人が日本式コミュニケーションを見ると、無責任、ずるい、幼稚、というネガティブ感情が生まれるそうです。
近年の日本人に見られる、相手を負かすために論破する、意見が合わない人との関係を断つ、スキャンダルに対する当事者への人格攻撃・・・などはコミュニケーションの型が欧米化したことに起因していると思います。
いずれにしてもパズルのピースが合わないようなもので、本能と自我のズレは相手に対する鬱積した怒り・悲しみ・嘆き・不満などネガティブ感情しか生まないのです。

また、SNSはそれを加速させる劇薬。
刺激の強い言葉や画像が乱立するタイムラインが受け身状態(親指一本でスクロールできる)でユーザーにダイレクトに入ってくる為、気に入らない意見が表示されたときに拒絶反応を起こしやすい。
特に受け身状態というのがやっかいで、感情が先立つ日本人にとって特に毒性が強い要因にもなっています。
『不可視』が日本人の本来の型であるにも拘らず、全てを『可視化』するSNSや欧米文化は、日本人の本能と自我を引き裂きストレスと混乱を与え続けている。
こちらの動画を参考にして下さい。
内容はさておいて、動画内の左の方は、右の二人からほぼ一方的に論破されていますが、注目すべき点は、相手への人格否定や感情論に移行せず、相手の目をしっかり見ていること。
日本人の感覚だと、右の二人の反論は、左の方の意見そのものへの反論であると同時に、相手(左の方)への人格否定だと混同しませんか?
むしろ右の二人に完全に論破されていて気持ちいいと感じませんでしたか?これこそが日本人特有の感覚らしいのです。
日本人にとって『意見の否定は、その人自身の否定と同義』一方で欧米人にとって『意見と人は別もの』
日本人の目から見て異質だと感じるのは、そもそもの自我の型が違うから。
恐らく動画内の彼らは、意見のぶつけ合いの支え(自我)を同一の神(共有クラウド)から引き出し合っているという感覚なので、このやり取りも無意識下では合意のものなのでしょう。
日本人だと、おそらく途中で耳を塞いで議論にならないか、人格攻撃合戦になると思います。
江戸時代以前の日本人は、これを無言のうちに行う。と。
従って、日本人は議論の仕方を強い自我に引っ張られ欧米に求めすぎているのです。
そして、各々のアイデンティティを決めるための本能(DNA)に刻まれた型が、コミュニケーション方式の型を決めるので、変えようと思っても変えられないものです。
日本人がどれだけ強い自我を持とうが、力づくで型にはめ込もうが、日本人が日本人である以上、永遠に欧米型に合うことはないのです。

逆に言えばかたちが変わってしまったのなら、すでに日本人は本来の日本人ではなくなっています。
結論、日本人が欧米型のディベート力を持てば持つほど、本能との乖離が大きくなることで、精神が引き裂かれてゆき精神分裂病、いわゆる統合失調症を拗らす。

それは議論において感情論という癇癪を起す原因の正体であった。
しかしながら、日本人は決してコミュニケーション能力が低いわけではない。
神である相手を傷つけることを恐れ、そして傷つけられることを恐れる日本人は、それを避けるためのリスクマネジメントとして弱い自我を形成し、相手の考えを汲み、先回りして解決するような無言のコミュニケーションを作り出したのです。
日本式コミュニケーションである阿吽の呼吸、以心伝心は想像力を巡らせ、懐が深く、人を信用し、相手を思いやり、性善説が成立する社会を実現した。
それこそが人類の文明社会にとっての理想のコミュニケーションの型だったのではないだろうか、と僕は思う。
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